グイノ・ジェラーラル神父の説教
C年 2018〜2019
待降節の主日
と
四旬節の主日
待降節第1主日
待降節第2主日
待降節第3主日
待降節第4主日
主の降誕 (夜中)
四旬節第1主日
四旬節第2主日
四旬節第3主日
四旬節第4主日
四旬節第5主日
復活の祝日
待降節第1主日C年 2018年12月2日 グイノ・ジェラール神父
エレミヤ33,14-16 テサロニケ3,12-4,2 ルカ21,25-28、34-36
救い主を与えることによって、神は預言者エレミヤに約束した幸福の約束を実現しました。 この幸福は正義と平安、つまり平和と親密に結ばれています。 イエスは「平和の君」として全世界に正義と平安と幸福をもたらす人です。
しかし福音を通してイエスは、苦難と不幸の時を宣言します。 太陽と月と星の中に現れる徴についてイエスは語ります。 この象徴的な話し方は、高慢と利己主義のうちに沈んでいる全人類に襲って来る不安をくつがえし、さらに不幸が私たちを襲って来る時の個人的な混乱を述べています。 ある徴は人々を恐ろしい苦悶に陥れ、他の人々は心の中に大きな希望を芽生えさせます。 私たちは、信頼を持って未来を見る人たちの数に、数えられますように。
古代の人々は、太陽や月や星を生贄と供え物によって自分の味方にする神々だと考えています。 ですから、星が落ちるということは、異邦人の宗教の終わりを告げています。 イエスは、この偶像礼拝を終わらせるために来ました。 皆のためにご自分の命を捧げることによって、真の幸福はただ神のうちにあるということを啓示しました。 大切なことは、多くの物質的な物に偽りの安全さを保証することではなく、幸福の泉である神と強い繋がりを結ぶことです。
キリストの教えは、希望の道を開きます。 現在の宇宙万物の終わりは、その破滅ではなく、むしろその完成です。 「身を起こして頭を上げなさい。 あなたがたの解放の時が近いからだ」とイエスは教えています。 もし、生活の煩いで私たちの心が鈍くならないなら、また、もし私たちが目覚めているなら、新たにされた命への希望を落ち着いた心で養い育てることができます。 もし絶えず祈ることができ、パウロが勧めているように、満ち溢れる愛のうちに豊かに生きる事ができれば、私たちは何も恐れる必要がありません。
様々の困難と試練の中に置かれているとき、立っていることが難しくなります。 また容易に絶望の状態に陥ってしまいます。 その為に絶えず祈ることをイエスが願っています。 祈りのお陰で、起こって来る出来事を新たにされた眼差しで見ることが出来ます。 また、祈りは私たちを困難や試練の中にいる人々と一致させ心の中に希望を生み出し、そして赦す心と愛し続ける心を豊かに与えます。
待降節第1の日曜日と共に新しい典礼的な年が始まりました。 この新しい年は、希望の扉を開き、そして私たちを支え変化させるために、イエスは私たちの間におられることを思い起させます。 イエスは私たちと共に宇宙万物を完成まで導きたいのです。 今日、イエスの御言葉と彼の御血と御体によって、私たちを養いながら私たちのうちにおられるイエスの現存を祝いましょう。 父なる神が私たちに与えたい終わりのない幸せと共にクリスマスの光を受けるために、私たちの心の準備をしましょう。 アーメン。
待降節第2主日 C年 2018年12月9日 グイノ・ジェラール神父
バルク 5,1-9 フィリピ 1,4-5,8-11 ルカ 3,1-6
紀元 28年に皇帝ティベリウスと支配者たちは世界を統治していました。 エルサレムの大祭司たちが自分たちの権力を振るって、イスラエルの民を支配している時に、ヨハネと呼ばれている人が現れてきました。 彼は聖霊で満たされ、神の言葉を延べ伝えていました。
皆に立ち向かって、洗礼者ヨハネは世界が逆転することを告げます。 「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。 曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになる」と。 世界の支配者たちが全く実現することができないことをヨハネは約束します。 確かに、皇帝であっても、支配者であっても、世界のおもてを変化させ、すべての谷と山と丘、曲がった道やでこぼこの道をなくすことはできません。 なぜなら、世界の地理を変化させ、新たにすることは神しかできないからです。 ですから、神の全能の前ですべての支配者の頭が下がらなければなりません。
皇帝ティベリウスの治世から2000年が過ぎたにも拘らず、洗礼者ヨハネの約束は地理の面ではまだ実現されていないと思われます。 しかし、神の言葉は私たちの内に実現されています。 洗礼者ヨハネが約束した、世界の逆転は人の心の中に行なわれています。 確かに神の言葉は私たちが持っている恐れと苦悶の谷を埋めます。 神の言葉は私たちの心にある高慢と虚栄の山、偽善の丘を低くします。 また神の救いが私たちの内に実現されるように、神の言葉は曲がった考えと行いを真っ直ぐにし、人を傷つけるでこぼこの悪い言葉を平らにします。
日常生活のでこぼこの道に躓いている人々に、神の言葉は開放をもたらします。 解決のできない状態に足踏みする人々や、絶えず同じ問題とぶつかって行き詰まっている人々に、神の言葉は救いをもたらします。 試練の山が人生の地平線を隠し希望の光を奪う時、あるいは落ち込んだ状態の谷を歩む時、または無理解の山と無関心の丘が毎日の風景になっている時、私たちを助け強めるために神の言葉が与えられています。
神の言葉は、洗礼者ヨハネと同じように私たちを砂漠に連れて行きます。 と言うのは、この砂漠で神は親しく私たちの心に語りますから(参照:ホセア 2,14)。 神の声を聞くことは肝心なことです。 神の言葉を聞き受け止めるのは、力を超える協力をすることではありません。 なぜなら、神は無理なことを願いませんから。 必要なことは、ただ回心することだけです。 言い換えれば自分から離れて、神に自分のすべてを向わせることです。 神への信頼は救いの入り口です。
ですから、この待降節の間に神が親しく私たちを導くことを承諾しましょう。 命と自由である神の言葉によって私たちが形作られ、新たにされることを心から望みましょう。 「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と洗礼者ヨハネは宣言しました。 クリスマスの貴重な恵みがすべての人に与えられるように、切に祈りましょう。
イエスはすべての人の救いのためにこの世にお生まれになります。 ですから預言者バルクと声を合わせて神に向かって絶えず祈り願いましょう。 つまり、「神がこの世界の悲しみと不幸の衣を脱ぎ、ご自分の栄光で飾り、そして永遠に正義と平和の衣で包めますように。 そうすれば、すべての人は神の栄光に包まれ、安全に歩むことができるでしょう」(参照:バルク5,1-7)。 アーメン。
待降節第3主日 C年 2018年12月16日 グイノ・ジェラール神父
ゼファニア 3,14-18 フィリピ 4,4-7 ルカ 3,10-14
今日の第1朗読と第2朗読は、待降節の第3の日曜日の特徴である「喜び」を迎えるように私たちを誘っています。 「皆さん、主において常に喜びなさい」と聖パウロは勧めています。 預言者ゼファニアは全面的にその喜びを表すように私たちを招きます。 「シオンの娘よ、喜び叫べ。 歓呼の声をあげよ。 エルサレムの娘よ、心の底から喜び躍れ」と。
「シオンの娘」、「エルサレムの娘」というのは、エルサレムの新しい地区であり、そこには紀元前7世紀に、サマリア地方の破滅を避けることができた、ほんの少しの人々が住んでいました。 彼らはとても貧しいので、預言者ゼファニアは神の内に信仰と希望を置くように誘います。 神は貧しい人の側に立つので、必ず彼らの助けになります。 神は貧しい人の喜びになりたいのだと預言者ゼファニアは保証します。 「イスラエルの王なる主はお前の中におられる。 主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のために喜びの叫びをもって楽しみ躍る」と。
私たちも神の喜びの泉になるように招かれています。 聖パウロはフィリピの信徒への手紙を通して、聖霊の現存の印と共に、それらに伴う深い喜びを歓迎するように私たちを誘います。 「主において常に喜びなさい。 重ねて言います。 喜びなさい。 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。 主はすぐ近くにおられます」と。
洗礼者ヨハネは、すべての人の喜びの泉となる救い主の到来を告げます。 というのは、洗礼者ヨハネは自分の方へ来る人々を喜びの道に導く使命を受けているからです。 天から降ってくる子の喜びを受け止めるために、それぞれの人が自分の心の準備をするように招かれています。 神が与える喜びは「完全であり、 誰もそれを奪うこともできない」(参照:ヨハネ16,24、22)、そしてこの喜びは私たちのために神を躍らせます。
キリストの喜びは、人が普通に感じる喜びとまったく違うものです。神の喜びはとても深いものであり、「自分の内に神がおられる」(参照:ゼファニア)あるいは「キリストが直ぐ近くにおられる」(参照:パウロ)ことに気付くキリスト者は、それを味わいます。 キリスト者は酷い状態の中に置かれても、心の中に自分を支え、強める深い平和と喜びを保っています。 ですから、恐れずに喜びましょう。 主は来られます。 主はすぐ近くにおられます。 アーメン。
待降節第4主日 C年 2018年12月23日 グイノ・ジェラール神父
ミカ5,1-4 ヘブライ10,5-10 ルカ1,39-45
ご自分の子イエスがいつ、何処で生まれるかを決めるために神は長い間思考しました。しかし、キリストの誕生の場所と歴史的な状況が私たちを惑わせます。なぜ、神はもっと良い場所や安全な時を選ぶことができなかったのでしょうか。
キリストの生まれる場所は、エルサレムの都でなく、金持ちの別荘でもなく、むしろ小さな村の飼い葉桶の方が良いと神は決めました。ベツレヘムの羊飼いたちだけが生まれたばかりの救い主を仰ぎ見て拝むことができました。なぜでしょうか。そして、貧しい大工ヨゼフがイエスを守り、育て、教育する責任を受けました。なぜ有名な律法学者ではなかったのでしょうか。イエスの誕生のために選ばれた貧しさと貧困の状態は、永遠の昔から選ばれて、私たちに対する神が持つ愛を表しています。このようにして人生の困難の中にいる人々と、乏しさを味わっている人々に対して、神はご自分への信頼を示しておられます。なぜなら、貧しさはいつも神の愛の豊かさを引き寄せるからです。
長い救いの歴史の中で、貧しい人や謙遜な人は、全人類が贖われるための歩みの段階を定めました(例:ノア、アブラハム、モーゼ、ダビデ、預言者たちなど)。神は彼らに対するご自分の信頼を示したのです。明日、そして来るべき2週間を通して私たちの救い主、私たちの贖い主であるイエスの誕生を歓迎して、祝うことで私たちも同じ信頼を持ち、表すように召されています。 神が約束したことを不思議なやり方で行うことを大いに喜ぶように、今日、マリアとエリザベトは私たちを誘っています。
マリアとエリザベトの心を満たした聖霊は、私たちの心も完全な喜びで満たしたいのです。なぜなら、明日私たちはイエスとその家族を訪問するからです。マリアのエリザベト訪問は、クリスマスの夜にどんな素晴らしい喜びが与えられているかを私たちに教えています。
神の愛は主を畏れる者におよびます。私たち一人ひとりに神から愛される特権が与えられています。ところで、私たちはこの良い知らせを宣べ伝えるために、知り合いの人々や神を知らない人々を、クリスマスのミサ祭儀に参加するように誘ってみてはどうでしょうか。明日、クリスマスの夜。必ず友だちや知り合いの人々が私たちと共に神を礼拝し、賛美するように、信頼と勇気を出して、また工夫して一緒に主の誕生日の喜びを味わいましょう。そうであれば、きっと「あなたがたが私たちのところに来てくださるとは、なんという幸せなことでしょう」とイエスもマリアもヨゼフも言うに違いありません。
聖霊が私たちの心に信仰や希望や喜びを注ぐように神に願いましょう。イエスは私たちを救うために明日お生まれになります。神の愛と慈しみが全世界を包むので、私たちがその出来事の証人となり、喜びで輝いている人となりましょう。アーメン。
主の降誕(夜半のミサ) 2018年12月24日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 9,1-3、5-6 テトス 2,11-14 ルカ 2,1-14
今から2000年前に一人の子供が生まれたので、私たちは今夜クリスマスを祝っています。紀元1世紀に不思議な現象が起こりました。人々は神に愛されていることを信じました。この発見が全人類を古代から現代に、また神々を恐れていた異教から父なる神を愛するキリスト教へ移しました。「人が個人的に神から愛されている」ことを信じ、確信をもって宣言する宗教はキリスト教だけです。更に、恐れずに神の命に親しく生きることができることを知っている人は、キリスト者だけです。今夜、私たちは神に愛されていることと、神を愛することを喜びのうちに祝っています。
クリスマスは、神に愛されていることを再発見することです。私たちは神の似姿に作られているので、神は私たちと同じ姿になることを望んで、マリアから生まれ、罪の他はすべてにおいて私たちと同じように生活しました。そういう訳で、人間の命は神の命に等しいのです。ベツレヘムに生まれたイエスは私たち一人ひとりに「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛しています」(イザヤ43,4)と打ち明けます。イエスの誕生の時から、ご自分の永遠の愛に私たちを引き寄せるために、神は親密に、また目に見える姿で、人間の歴史の中に入りました。
キリスト教の信仰の第1の柱は、神が私たちを愛していることを知ってそれを宣言することです。「人間が神になるように、神は人間になりました」と、司教アタナジオは教えています。人間と神の間に、キリストの存在に結ばれた愛の契約があります。神によって私たちが生きるように、キリストはご自分の命を献げました。イエスの誕生と死は神の親密さの内に全人類を引き寄せ、神の神聖に与らせます。
キリスト教の信仰の第2の柱は、キリストの復活です。復活したイエスは神が私たちの内に生きていることを教えています。キリストを信じる私たちは聖霊の神殿となって、神の現存が私たちの内に絶えず成長するように霊的な食べ物として、キリストの御体と御血をいただきます。インマヌエルとして、神は私たちと共に、私たちの内におられます。イエスはそれをはっきりと教えました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17,21)と。確かに神は私たちの内におられます。私たちの心の奥深くで神は私たちを待っています。ですから、永遠の昔から全人類を愛してくださる神を私たちの心の奥深くに探しましょう。今夜、神は天の平和と喜びで私たち一人ひとりを満たしたいからです。
昔預言者イザヤは、神の愛を告げました。「ひとりのみどり子がわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた…万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザヤ9,5-6)と。ベツレヘムの夜にイザヤの預言が実現されました。母マリアは約束された子に命を与え、天使たちは声を合わせて歌います。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。ベツレヘムの羊飼いたちは幼きイエスと出会って後、もとの羊の群れの傍に戻りましたが、彼らの心の中の何かが変わりました。救い主を発見するために天使によって誘われた羊飼いたちは、神が自分たちを愛していることと同時にそれを最初に知るのは自分たちだと発見して、神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。
イエスを礼拝しながら、今夜私たちも自分の内に注がれている神の愛を発見しましょう。この愛は私たちを悪から守り、救い、また罪の赦しをもたらします。イエスに倣って(マタイ11,9)私たちも心の謙遜な人、心の柔和な人となりましょう。そして平和と喜びが与える神の愛に永遠に生きるように召されているから、絶えず賛美の歌で神に感謝しましょう。アーメン。
聖家族 C年 2018年12月30日 グイノ・ジェラール神父
サムエル上1,20-22、24-28 1ヨハネ3,1-2、21-24 ルカ2,41-52
イエスとマリアの保護者であるヨセフは沈黙の人です。 彼の口から出た言葉は一つも知られていません。 ヨセフという人は敏感な感性を持ち、精力的であり、積極的に決断する人です。 ヨセフはユダの部族に属し、ダビデ王の子孫です。 「その子をイエスと名付けなさい。 この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1,21)という天使の勧めに従い、イエスに名前を与えることによって、ヨセフはイエスをダビデの系図に入れました。 ヨセフはナザレに住み、大工として働き、後に自分の仕事をイエスに教えました。 ナザレの人々はイエスについて話すとき「この人は大工の息子ではないか」(マタイ13,55)、または「この人は、大工ではないか。 マリアの息子です」(参照:マルコ6,3)と言っています。 ヨセフは天使の忠告を受けて「夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り」(参照:マタイ2,14)イエスの命を守りました。 「天と地に対する『父性の源』と呼ばれる」(参照:エフェソ3,15)イエスの前で、ヨセフはいつも謙遜で目立たず忠実な父親でした。 「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(参照:ルカ2,49)とイエスが自分は神の子であることをはっきり言ったので、父親ヨセフは神から委ねられた使命を全うして静かに退きました。
イエスの母マリアも沈黙の方です。 私たちは彼女の数少ない言葉を知っています。 マリアは心でよく聞くので、自分の人生の中で「代々に限りなく、主を畏れる者に注がれる神の愛」(参照:ルカ1,50)を発見することができました。 私たちのためにイエスを産んだ後、マリアは「その子を布にくるんで飼い葉桶に寝かせました」(参照:ルカ2,7)。 イエスが生まれたベツレヘムの村の名は「パンの家」を意味します。 ユダヤの伝統に従って布にくるまれたイエスは、まるで生きたパンのようです。 そして、イエスは飼い葉桶に置かれると既に私たちを養うパンとして示されています。 母としてマリアは日常生活のすべての出来事を思い巡らします。 謙遜で貧しいマリアは、産んだ自分の子の運命を邪魔しないことを承諾しました。 ちょうど昔、幼いサムエルに対して母であるアンナが行なったように、マリアもイエスが「生涯にわたって主に委ねられた者」(参照:サムエル上1,28)となることに同意しました。 聖霊で満たされたマリアは十字架の下で「剣で自分の心を刺し貫かれるときに自分の母性が完成することを悟りました」(参照:ルカ2,35)。 マリアはいつか全人類を自分の子どもとして受け入れることを予感しました。 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19,26)と。 イエスの母マリアは、私たちの母でもあります。
イエスはヨセフから自分の名を受けました(参照:ルカ1,31)。 ナザレで過ごした子ども時代にイエスは家族の親密さを味わいながら、父なる神を「アッバ」と呼ぶ親しい関係を結ぶことを少しずつ学びました。 イエスは両親の教育を受けますが、神の救いの計画を実現するために、即ち「多くの兄弟の中で長子となるために」(参照:ローマ8,29)イエスは両親に対して自由な態度をとりました。 エルサレムの過越祭のときに12歳になったイエスは自立を宣言します。 「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(参照:ルカ2,49)。 また、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハネ4,34)と。
今、イエスの家族について語りました。 なぜ、この家族は聖家族と言われているのでしょうか。 ヨセフは愛と慈しみをもって、まずマリアのうちに、次にキリストのうちに実現されている神の神秘を認め、謙遜に尊敬し、どのように実現されるかを見守りました。 マリアはヨセフを愛しながら、謙遜に彼の保護のもとで生きることを承諾しました。 ヨセフの愛に支えられ、マリアは神の救いの計画を理解し、受け入れてイエスを大切に育てました。 イエスはヨセフとマリアの愛に支えられ、自分のうちに神が置かれた召命と使命の恵みを発見しました。 神の前に生き、そのみ旨を行なったヨセフ・マリア・イエスは模範的な聖家族です。 信仰のうちに「わたしたちは、既に神の子である」(参照:1ヨハネ3,2)ことを再発見しましょう。 私たちもまた神の前に生き、そのみ旨を行うことによって聖なる家族となりましょう。 私たち一人ひとりが、ヨセフ・マリア・イエスの家族から助けと執り成しを受けるように祈りましょう。 アーメン。
四旬節
四旬節第1主日 C年 2019年3月10日 グイノ・ジェラール神父
申命26,4-10 ローマ10,8-13 ルカ4,1-13
イエスは洗礼を受けた時、父なる神の声を聞きました。 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(参照:ルカ3,22)と。 聖霊で満たされたイエスは荒れ野の中に導かれて、悪魔から誘惑を受けました。 「神の子ならこうしよ、そうしよ、命令しろ」と悪魔は何回も誘いました。 そうすることで悪魔は、神の子としてキリストが持っている父なる神との繋がりを疑わせます。
長い間、何も食べていないイエスに「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と悪魔は勧めます。 飢えている人が食べるのは当たり前のことです。 「神の似姿」に造られた人間は自分の体を大切に養うべきです。 そして「神の子」となるために神の言葉を毎日聞く必要があります。 洗礼によって私たちは神の子となりました。 そのために、四旬節の断食は神の言葉に対する飢えを持ち続けるように私たちを誘っています。 すでに預言者アモスの言葉を借りて、私たちがこの霊的な飢えを持つように神は誘いました。 「見よ、わたしは大地に飢えを送る。 それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(参照:アモス8,11)と。
「もしわたしを拝むなら、すべての国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」。 このことを勧めながら、イエスが父なる神との繋がりと神からすべてを受けることを拒否するように、悪魔は誘惑します。 しかしイエスはすぐにこの誘惑を退けました。 神を拝むことは高慢の罪から守り、そして苦労せずに、あっという間に受ける幸福の幻を見分けることを可能にします。 神を拝むことは、代償やそれに見合う報いを受けることを望まない無償の行いです。神は強制的に支配する神ではなく、謙遜にご自分を委ねる神であり、無償ですべてを恵みとして与える神です。
「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。 『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』」と悪魔は言いながら、イエスが天使よりも偉い者だということを思い起こさせます。 しかしイエスはこの考えを強く追い出します。 イエスは人間としてすべての人の道を歩むことを決めました。 これこそ、イエスに委ねられた使命です。 イエスはすべてにおいて私たちと同じように生活しました。また、イエスは私たちと同じように誘惑を受ける可能性も承諾しました。
キリストの教会も、いくら聖霊に導かれて聖霊の効果的な働きを受けても地上のものです。教会が誘惑を受けるのは、ある意味で当然です。 その誘惑に打ち勝つために教会は神に奇跡的な解決を求めずに、ただ謙遜に神の助けを願います。 この四旬節の間で、私たちを攻撃する誘惑から、どのように打ち勝つことができるかをキリストから学びましょう。
特に主な二つの誘惑が私たちを狙っています。 まず他人を支配すること、自分を無理に強いること、自分を必要不可欠な者だとすること、すべてのことに首を突っ込み口出しすること、という誘惑です。 この誘惑は自分が神だと思い込む高慢な誘惑です。 次に神を試す誘惑です。 つまり神がしるしを与え、奇跡を行うように願うことによって、人が神を自分の召使いにしようとする誘惑です。
復活を目指す私たちは回心する必要性があることをはっきり認めましょう。 回心はいつも罪の告白と悪い習慣を改めることから始まります。 謙遜に神の赦しと聖霊の助けをこの四旬節の時だけではなく、私たちの全生涯において願いましょう。 誘惑に陥らないように、神の言葉を私たちの人生の土台としながら、教会の祈りの助けを受けながら、イエスの似姿になるように学びましょう。 アーメン。
四旬節第2主日 C年 2019年3月17日 グイノ・ジェラール神父
創世記 15,5-12、17-18 フィリピ 3,17-4,1 ルカ 9,28-36
アブラハムが生きていた時代には、部族の頭たちは創世記が述べているやり方で契約を結んでいました。 殺されていけにえになった動物の間を通ることによって、契約者たちは約束を破るならば、これらの動物と同じように殺される運命を受けることを示していました。アブラハムも同じ伝統的なやり方で神と契約を結びますが、神だけが生贄になった動物の間を通り過ぎました。なぜなら、アブラハムはその時不思議な眠りに落ちたからです。この眠りはちょうど、神が女を造った時にアダムを襲った眠りと同じ眠りであり、また変容の山の頂上で弟子たちを包んだ眠りと同じ眠りです。
人々がこの眠りから目覚めると新しい創造が始まっていました。アブラハムとの契約に対して、ただ神だけが揺るぎない忠実をもって約束しました。人間は神のような忠実をもっていないので、人間は神に揺るぎない信頼を示すことだけが要求されています。「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(参照:創世記15,6)と。信じることは、疑い、試練、苦悶、絶望の状態に置かれていても、神に対する揺るぎない信頼を示すことです。アブラハムはこの信頼を神に示しました。
今日の詩篇は違った言葉でこの信頼について教えています。「神はわたしの光、わたしの救い。わたしは誰も恐れない。神はわたしの命の砦、わたしは誰をはばかろう』(参照:詩篇27,1)。順境にあっても、逆境にあっても、病気の時も健康の時も、どのような状況に置かれても私たちは神への信頼を強めることが必要です。なぜなら、信頼は「神のいつくしみを仰ぎ見る」(参照:詩篇27,13)ことを可能とさせるからです。
また、この信頼は聖パウロがフィリピの教会の信徒に送った手紙の中に見つけます。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」と。私たちがイエスを「救い主として待っている」と宣言することは、自分たちの内にではなく、キリストに信頼を置いていることを宣言することです。
イエスが山の頂上で祈っている時に、ペトロ、ヨハネ、ヤコブは神秘的な眠りに陥りました。この眠りは彼ら3人の内に行なわれている神の働きを現しています。目覚めると彼らは変容されたキリストの神秘性を理解できました。現れた栄光の雲の中で、神は自分の子イエスの神秘を啓示しながら、愛で満たされたご自分の願いを彼らに聞かせます。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と。
呆然としたペトロは、ずっとこの素晴らしい状態の中に留まることを強く望んでいました。しかし人が神に示す信頼は、この世の事実とこの世に起こる問題から遠ざかることを許しません。私たちは日常生活の中で神に自分の信頼を示さなければなりません。日々の試練にも拘らず私たちはキリストにあって全人類の変容を信じて、待ち望んでいます。イエスがご自分の死と復活によって、私たちと共に永遠の契約を結んだことに対して、絶えず神に感謝しています。
回心から回心へ私たちは、自分自身の変容を実現しています。ミサ祭儀に参加するたびに私たちは神への信頼を示し、そして私たちに結ばれている愛と赦しの契約のために神に感謝します。それぞれのミサ祭儀によって、私たちは神の子として生きることができますので、私たちがキリストに与えられた愛はこの世を変容まで導くように招きます。信頼を込めてこの使命を果たしましょう。アーメン。
四旬節第3主日 C年 2019年3月24日 グイノ・ジェラール神父
出エジプト3,1-8、10,13-15 1コリント10,1-6、10-12 ルカ13,1-9
シロアムの塔の崩壊の報告や祈るためにエルサレムに来て虐殺された人々の知らせを聞いた、イエスの反応と答えは私たちを惑わせます。 総督ピラトの企んだ政治的な計画であろうと、自然の災いであろうと、イエスにとっては人々を襲った不幸と罪は一致しているようです。 なぜなら「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか」とイエスは尋ねています。 同時にイエスは正しい答えを与えます。 「決してそうではない。 言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と。
私たちは不幸な出来事と思いがけない死に直面する時に、神にこの望まない出来事の責任を負わせがちです。 しかしイエスは何回も繰り返して言います。 神は私たちの幸せを望んでいます。 神の心に自分たちの心を組み合わせるなら、この幸福が実現されます。 言い換えれば、回心することです。 私たちを攻撃し傷を与える不幸を見て、神は非常に混乱しています。 永遠の昔から神はそういうことを望んでいないからです。
燃えている柴の鋭い棘の中におられる神は、私たちに対するご自分の苦しみと同時にイスラエルの民の苦しみを具体的に啓示しました。 ご自分の子どもたちが奴隷になったことで、神の胸が強く痛みます。 彼らの苦しみは神ご自身の苦しみです。 圧迫されている神の民を解放するために、モーセは神の名によって不思議な奇跡を行なうことで、苦しんでいる民に対する神の憐れみと同情を現す使命を受けました。 心の頑ななファラオは回心することを否定したので、エジプト人はあらゆる種類の災いの攻撃を受けました。
しかし、神は決してご自分に逆らっている人に罰を与える神ではありません。 今日のいちじくのたとえ話が教えている通り、神は人に慈しみ深く、憐れみ深く、忍耐強い神です。 神は人間を信頼します。 神は絶えず、人間にご自分の言葉と赦しを与えます。 もし神が憐れみ深い神でなければ、何も言わずに人を無視して、その人の運命に任せるはずです。 あるいは木を伐採するように、神は斧でその人を切り倒すでしょう。
しかし神は、私たちをもっと大切に世話をするために、また私たちが豊かな実を結ぶようにご自分の子イエスを遣わしました。 父なる神の代理者であるイエスは、助けの手を差し伸べています。 私たちはこの手をとるか、あるいは無視するか、その自由と責任をもっています。 私たちの心の実を結ばない状態を癒すイエスは、神の心から絶えず湧き出る愛を啓示しています。 私たちの人生が実を豊かに結ぶには、神がご自分の子イエスを通して差し伸べる手を掴むことが肝心なことです。
回心の時である四旬節は、神が望まれる豊かな実を私たちが結ぶように大きな助けとなります。 この季節の間にイエスは私たちの直ぐ傍にいて、私たちの毎日の喜びと悲しみを分ち合います。 イエスは私たちの人生の岩です。 第二の朗読を通して聖パウロは、神は昔砂漠の中で乾いていた民に具体的にそれを預言したことを説明しています。 「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについてきた霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」と。
ですから神に苦情と不平を言いながら、あるいは自分について嘆きながら、不幸の砂漠で乾いた状態に留まらずに、忠実に私たちに伴う泉の岩であるイエスに近寄りましょう。 そしてイエスと共に今日の神の言葉を唱えましょう。 「心を尽くして神をたたえ、すべての恵みを心に留めよう。 神は私の罪をゆるし、痛みをいやされる。 わたしのいのちを危機から救い、いつくしみ深く祝福される」と。 アーメン。
四旬節第4主日 C年 2019年3月31日 グイノ・ジェラール神父
ヨシュア5,10-12 2コリント5,17-21 ルカ15,1-3,11-32
モーセの律法を厳密に守る律法学者とファリサイ人にとって、イエスは当時のユダヤ社会の中で悪い人間とされていた人々と関係を持っています。 なぜなら、イエスはあまり感心できない人と話し、そういう人の家を訪れ一緒に食事をするからです。 律法学者とファリサイ派の人々は憤慨しています。 自分の振る舞いが正しいことを納得させるために、イエスは彼らに3つのたとえ話を語りました。 今日、私たちはその中の一番有名な3番目のたとえ話を聞きました。 このたとえ話は、自分たちの父に対する二人の息子の間違った考えをはっきり見せています。
まず、長男を見てみましょう。 彼は父に対しても弟に対しても正しくない関係を育てています。 彼にとっては、自分の父は労働者を雇っている雇い主です。 「わたしは何年もお父さんに仕えています」と言った長男は、自分が息子ではなくて、ギブアンドテイクで生きている人です。 弟に対して彼は嫉妬と妬みを育てています。 弟は遺産をもらって家を出て家族的な関係を切ったので、もう自分の兄弟ではありません。 父に向って長男は弟のことを「あなたのあの息子」と言っています。 私たちは度々、神に対してこの長男と同じ態度を見せます。 私たちが神の子供であることを忘れて、給料をいただく僕のように神に報酬と報いを要求します。 また、たとえ話の長男の態度を真似て、私たちと同じように振舞わない人を妬み、見捨てることもします。
弟は決して模範的な息子ではありません。 父が生きている間に自分の遺産を要求することによって、お父さんが既に死んだかのような願いをします。 ある意味で弟は自分の父を殺しています。 遺産をもらって出て行った弟は、妄想から絶望へ貧しさの最低のレベルに落ちてしまいました。 飢えて死にそうになった弟が、父の家に帰ろうと決心した時、一度も自分が父に与えた苦しみや悲しさについて考えませんでした。 彼は飢えによって死なないために家に戻ってきますが、心に真の悔い改めの心はありません。 ただ自分を弁明するためにほんの少しの悔い改めの言葉を用意していました。 同じように私たちもこの弟に倣って神のそばに戻る時、神に感謝するためではなく寧ろ神が私たちに新しい恵みと助けを与えるように戻ってきていないでしょうか。
たとえ話の父は完全な父です。 まずこの父は自分の子供たちの自由を完全に尊重します。 「行きたいですか。 どうそ、ご自由に」、「祝宴に参加したくないですか」どうするかは、あなたの選びです。 この父は息子たちが良い決定をするように待ち望んでいます。 すべて受け、すべて耐え忍ぶ深い愛を現しています。 次々に自分を見捨てる息子たちの方へこの父は走ります。 どのような態度をとっていても、息子たちが自分の息子であることを強く思っています。 絶対に彼らを見捨てません。 この父の無償の愛は、命と喜びを与えます。 「弟は死んでいたのに生き返った。 いなくなっていたのに見つかったのだ。 祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と。 この父の愛は完全な献身です。 「わたしのものは全部お前のものだ」と。 神から離れた人々にイエスはこの愛を示します。 特に律法学者とファリサイ派の人が、見捨てて罪びとだと決めつける人々にその愛を示します。
私たちは、たとえ話の二人の息子のうちに自分の生き方を見つけるかも知れませんが、それはたとえ話のメッセージの目的ではありません。 父なる神の姿を紹介するイエスは、この父なる神のように行うように私たちを招いています。 なぜなら、私たちは神の似姿に創造されたからです。 イエスご自身が言葉と行いによって私たちに対する神の無限の愛を啓示します。 そして私たちにイエスは次のように誘います。 「あなたがたの天の父の子となりなさい。 父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ5,45)。 「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5,48)と。 アーメン。
四旬節第5主日 C年 2019年4月7日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 43,16-21 フィリピ 3,8-14 ヨハネ 8,1-11
福音が述べているこの女性について、私たちは何も知りません。彼女の名前も、年齢も、その顔も。私たちが知っているのは、律法学者やファリサイ派の人々の言い訳に過ぎない証しによると、彼女は姦通の現場で捕らえられたということだけです。朝早くまだ暗いうちにファリサイ派の人たちは、外で何をしていたのでしょう。実はこのことこそ彼らが長い間企んでいた罠をはっきりと現しています。また、ファリサイ派の人たちは女に向って侮辱することも、咎めることもせず何も言いませんでした。まるで彼女が既に石で殺されていたかのように。ファリサイ派の人たちが彼女を利用する目的は、イエスを死刑にさせるために役に立つ罠にすることでした。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と彼らはイエスに尋ねます。
これはとても恐ろしい罠です。もしモーセの律法に従うように勧めるなら、死刑の宣告を下す権利をもっているローマの総督ピラトにイエスは逆らっています。もしイエスがそれを拒むなら、公の宗教界の権威者であるモーセの反対者になります。イエスは何も言わずに、しゃがんで砂に何かを書き始めました。何を書いたのか誰もわかりませんが、きっと神が自分の指で石の板に「殺すな」と書いてモーセに与えた掟を思い起こさせようとしたのでしょう。イエスは砂に書くことによって、モーセの律法が死をもたらし、神の掟は命を与えることを教えたいのです。
律法に従っていると主張するファリサイ派の人々は、公にそれを破りました。彼らは、男性たちだけが入ることができる神殿の境内に、罪の女を連れてきました。モーセの律法に寄るならば、彼らの行いも罪の女の罪に等しいものです。それに加えて、女について偽証もしています。そのために、しゃがんでいた状態から立ち上がったイエスは、彼らに権威を持って訴えます。「罪を犯したことのない者がこの女に石を投げなさい」と。その言葉の強さはファリサイ派の人々を動揺させ、彼らは次々と何も言わずに去っていきます。最後は罪の女だけが残ります。
彼女は逃げることができたのに、イエスの前に残ることによってイエスに対する自分の信頼を示しました。罪のないイエスは誰も罪に定めません。むしろ「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言って、彼女に未来の道を開きます。預言者イザヤと聖パウロのように、後ろの過去を振り向いて見ないように、イエスは彼女を誘います。「昔のことを思いめぐらすな。見よ、神は新しいことを行なう」(参照:イザヤ43,18-19)と預言者は願います。「わたしは後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けています」と聖パウロは断言します。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」とイエスは勧めます。この言葉は人を復活させる言葉であり、赦しと慈しみの道を開く命の言葉です。
神の愛のお陰で、人はいつでも自分の過去から離れることができ、赦しと命を歓迎することもできます。神の慈しみは私たちの過ちと受けた傷を希望と命の泉、また謙遜と感謝の泉へと変化させます。罪のないイエスは、誰にも石を投げません。なぜなら、主イエス自身が全人類を造り上げる生きた岩ですから。イエスは、命、赦しと慈しみを豊かに湧き出す岩であり、私たちの歩みに伴う救いの岩です(参照:1コリント10,4)。ですから、恐れずに命の岩であるイエスに近寄りましょう。そして揺るぎない信仰と信頼をもってイエスと一つの霊、一つの心、一つの体となりましょう。アーメン。
復活の主日 C年 2019年4月21日 グイノ・ジェラール神父
使徒10,34、37-43 コロサイ3,1-4 ヨハネ20,1-9
キリストの墓が空であることを最初に見た人はマグダラのマリアで、その次に見たのはペトロとヨハネでした。 しかし彼ら三人はイエスを見たのではなく、墓の中にイエスが残した亜麻布しか見ませんでした。 それを見てマグダラのマリアは泣き、ペトロは困惑しました。しかしヨハネはそれを見て信じました。 確かにヨハネはイエスが愛した弟子でした。 しかし同様に、マグダラのマリアやペトロや他の弟子たちも同じようにイエスは愛していました。マグダラのマリアとペトロには何も見えなかったのに、どうしてヨハネは何か信じるに値するものを見ることができたのでしょうか。 これについて、後で説明していきます。
朝早くまだ暗いうちに、墓に辿り着いたマグダラのマリアは「わたしの愛にとどまりなさい。」(参照:ヨハネ15,9)というイエスが与えた掟を忠実に行ないました。 忠実に終わりまでイエスに従った彼女はキリストの愛で満たされた正しい態度でした。 なぜなら、イエスの復活は悪と死に対する愛の勝利を宣言するからです。 そういう訳で、マグダラのマリアは世界を贖う愛の証人です。
二番目にイエスの墓に辿り着いた人はヨハネでした。 彼は若いので勢いよく墓に向かって速く走りました。 確かに空の墓の中には何も見えませんでしたが、自分の心の中にイエスの言葉が生き生きと生き返っていました。 ヨハネは目の前に何も見なくても、イエスが言われたように復活したことをすぐ理解しました。 ヨハネの信仰は具体的な証拠ではなく、ただ神のみ言葉に信頼をおいた信仰に基づいています。 他の誰よりも先に信じたので、ヨハネは信仰の証人となりました。
ペトロは息を切らせながら、ようやく墓に辿り着きました。 「あなたのためなら命を捨てます」(参照:ヨハネ13,37)と言ったペトロは強い意志をもって誓いながら、イエスの受難の時、三回キリストとの関係を否定しました。 しかし、ペトロはその罪にも拘わらず、一度も神の慈しみについて疑問を持ちませんでした。 ペトロの心の中で希望は生き生きと燃え立っていました。 確かにペトロは空の墓の前で困惑しました。 しかし「希望のないところに希望を置くこと」は大切だということをよく知っていました。 何も分からずとも何か良いことが起こると信じ続けたペトロは希望の証人です。
このようにして、マグダラのマリア、ペトロ、ヨハネはイエスの空の墓を通して、何も見なくても、何も理解できなくても、ただ神のみ言葉を信じる信仰に私たちを導き誘います。私たちはイエスが復活したことを信じ、宣言し、喜びのうちに祝っているからこそ、マグダラのマリア、ペトロ、ヨハネと一致しましょう。 そして私たちの愛、信仰、希望を強く現しましょう。 それはすべての人が今もとこしえに、私たちと共に悪と罪と死に対するキリストの勝利を深く味わいますように。 アーメン。
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